医師紹介

院長 阿部 太郎(あべ たろう)

はじめまして。
私は2000年に医大を卒業し、無医村などに赴任しました。
その経験から、病気だけをみるのでなく、人を診ねばならないと学びました。地域医療に携わる中で、内視鏡(カメラ)が必要と全国有名病院へ武者修行に行くこととしました。厳しく鍛えていただき、福岡徳洲会病院では多くの患者さんの診療・内視鏡をさせていただきました。
経験を重ね、消化器内科部長として診療しておりましたが、より患者さんを近くで診せていただきたいと思いこの度開院することとなりました。
苦しくない内視鏡や、逆流性食道炎・胃炎(ピロリ菌)・血便・便潜血便秘など胃腸疾患はもちろん、内科専門医として高血圧・脂質異常・糖尿病高尿酸血症などの生活習慣病の治療を通じて信頼されるかかりつけ医になれるよう努力してまいります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
院長 阿部 太郎

経歴

2000年 自治医科大学卒業 県立宮崎病院で初期研修
2002年~2008年 宮崎県内へき地医療機関勤務(所長・副所長)
2005年 自治医科大学付属病院消化器内科
2008年 県立宮崎病院
2010年 秋田赤十字病院 消化器病センター
2012年 福岡徳洲会病院 消化器内科医長
2017年 福岡徳洲会病院 消化器内科部長
2018年10月 あべ胃腸内視鏡・内科 開院

資格

日本内科学会総合内科専門医・指導医
日本消化器内視鏡学会専門医・指導医
日本消化器病学会専門医
日本糖尿病協会療養指導医
H. pylori(ピロリ菌)感染症認定医

生い立ち

はじめに

こんにちは。あべ胃腸内視鏡・内科のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。院長の阿部太郎です。医師18年目の2018年秋に開業致しました。
私の専門分野は消化器内科です。特に内視鏡では最先端の内視鏡治療学を全国有名施設で学び、苦しくない、こだわりの内視鏡検査を得意としております。
私の信念は、患者さんに真面目に、真剣に向き合った診療・内視鏡を行なうことです。
なるべく一人一人の個を重視し、人間的ふれあいを大切にした診療を日々行っていきたいと思っております。
宜しければお時間がある時に、私という一人の人間を知ってもらうために、是非ご拝読ください。
院長 阿部 太郎

幼少期

私は1975年に宮崎市で4人兄弟(男男女女)の長男として生まれました。
幼少期は勤務医(放射線科)の父の仕事の都合にて関東圏に住み、家族仲良く幸せに過ごしました。大きなマンションが建ち並ぶニュータウンに住み、同じ年ごろの子供たちもたくさんいました。
私はというと、内弁慶な性格の子供でいつも弟妹を引き連れては、周りの小さな子供たちを連れて遊んでいました。
そのような穏やかな日々も束の間、私が13歳の時に父が心筋梗塞で急逝します。
夜寝ているはずの父が息をしていない、青ざめた母に起こされ、救急車を先導した記憶が残っています。
今から、34年前の七夕の時期のことで笹の短冊の願い事が虚しく、絵本のようにみんなで仲良く暮らし続けることは当たり前ではなくて、人生は突然急変するものだと知ります。
父は、専業主婦の母と幼い4人の子供を残して、43歳という若すぎる死でした。
家族を力強く支えていた父の死はあまりに突然であまりに無情で...。
人の死をどこか他人事のように思っていた13歳の自分にとって、十分すぎる「命の原体験」となりました。
幼少期

中高生時代

父の突然の死により母の実家の宮崎県宮崎市に移住しました。
それまでは専業主婦だった母ですが、私たち4人兄弟を育てるために大黒柱になり、必死になって働いてくれました。忙しく働く母に小遣いをねだることはできず、公園の水を飲み、ゲームセンターで友人たちが遊ぶのをながめることで楽しみました。
余裕のない生活でしたが、いつも明るく前向きな母のおかげで、やさぐれることなく何とか青春時代を送りました。
突然帰ってきた母と4兄弟を何も言わずに迎えてくれた祖父母、色々と助けてくれた親類、中高生時代を過ごしてくれた数少ない優しい友人には今でも感謝しています。

自治医科大学時代

家庭の事情で余裕がなかった私は、当時まだ全寮制で学費や授業料のかからない栃木県の自治医科大学に進学しました。しかし恵まれた学習環境にホッと胸をなでおろしたのも束の間。地域医療が抱える課題とそこで暮らす人々の悩める気持ちに考えを巡らせる、充実しつつも慌ただしい日々が続きました。
自治医科大学の「医療の谷間に灯をともす」の建学の精神は、武者修行時代の私を後押しするだけでなく、地域のために自分には何ができるかを自問自答する機会を与え、医師としての確固たる自覚を促しました。
余談ですが、大学時代は空手部でした。
私を含め、学生たちは勉学の間に部活動にも打ち込み、厳しい稽古に辞めたい辞めたいと思いながらも同期や先輩後輩に支えられ、なんとか卒業まで頑張ることができました。
いまでは皆、日本全国で活躍しておりますが,機会あるごとに友情を分かち合う大事な生涯の友人となっております。
自治医科大学時代
自治医科大学時代

地域医療で学んだこと

自治医大は学費を国が負担する代わりに、卒業後は県庁の指示する医療機関で地方公務員として9年間勤務する義務があります。
県立宮崎病院での初期研修後、九州の県境の山村や港町の診療所に赴任しました。
へき地の小さな診療所ではできる治療が限られている中で、ここでの患者さんに何ができるのか?と考えざるを得ませんでした。
診療し、入院が必要と思われる方が大きな病院に行くのをためらっている。
「なぜ、この人は入院したがらないのか」と考えたときにじっくり患者さんの話を聞くことで、ようやくそのひとが抱えている思いや背景が見えてきます。
「病気だけでなく患者さんを人として診せていただく。患者さんの人生の信念をくみ取り、大事にする医師となる」という今も私が理念としていることはこの時期の地域医療で教えていただきました。

内視鏡を専門に

へき地医療に携わる傍ら、その間に自治医科大学病院で最先端の内視鏡治療学を1年、県立宮崎病院で内視鏡診断学を2年勉強させていただきました。
地方の診療所にも胃カメラはあることが多いのですが、患者さんの「先生の胃カメラは上手い」「苦しくなかった」と褒めていただいたのを契機に内視鏡を専門的に学びたいと思うようになりました。
自身が初めて内視鏡を受けた時のきつさ、二度と受けたくないという気持ちも実感出来ましたので、何とかしたいという思いもありました。 当時はこれまで外科手術でしか治せなかった早期胃がんを内視鏡治療で治すことが可能となり、拡大内視鏡によるがんの診断が花開き始めたころであり、内視鏡診療に未来を感じ医師人生を内視鏡にかけようと考えるようになりました。

内視鏡武者修行時代

本格的に大腸内視鏡を学びたいと決心した私は、義務年を勤め上げ、秋田赤十字病院に修行に向かいます。
秋田の地は冬は雪に閉ざされますが、人の温かさが身に沁み、雪解けや春がこんなにも美しく嬉しいものかと感銘をうけました。
秋田赤十字病院は、工藤進英先生が陥凹型大腸がんを発見・提唱した拡大内視鏡診断の「聖地メッカ」であり、軸保持短縮法(苦痛の少ない大腸内視鏡挿入法)の本家です。
当時は山野泰穂先生(現札幌医大准教授)の下に日本全国から集まった医師が門下生として早朝の内視鏡画像カンファレンスから深夜にわたる顕微鏡検査と、大いに鍛えていただきました。
その時代はとにかく内視鏡の為ならプライベートな時間も犠牲にすることを厭わないストイックな医師達の集まりで、文字通り真剣を交わすような議論、徹底的にこだわった仕事をし、毎日へとへとでしたが、仕事終わりの深夜に師匠や兄弟子達といただく秋田のお酒は最高でした。
内視鏡武者修行時代
内視鏡武者修行時代

福岡徳洲会病院 勤務医時代

修行を終え、縁があり2012年より福岡徳洲会病院で勤務することになりました。
福岡徳洲会病院は九州第一位の救急搬送を受け入れる病院であり、吐血下血などの緊急内視鏡を十二分に経験させていただきました。
また、主任部長の仲道孝次先生は苦しくない大腸内視鏡挿入法のさらにスピードアップする研究・指導を続けておられ、自分の内視鏡診療を高めていただきました。
内視鏡診療にも自信を得、内視鏡部長も務めさせていただきましたが、いつのまにか7年が経過していました。
大きな病院ではやむを得ないのですが、患者さんを診るというよりは疾患を診ることが増え、このままずっといるよりは再び患者さんに寄り添う医療をしたいという思いが強くなってきました。
福岡徳洲会病院 勤務医時代

開業から5年たち

きつくない・こだわりの内視鏡を身近なクリニックで受けていただき、がんで苦しむ人を減らしたいと2018年秋に東那珂に「あべ胃腸内視鏡・内科」を独立開業いたしました。
開業当時は患者さんが一日数人のこともあり、クリニックを存続できるかと落ち込む時期もありましたが、「患者さんに寄り添う医療・病気だけでなく人を診る医療」をモットーに、真面目にこつこつと患者さんに誠実に向き合うことを実践しました。
お陰様で5年目を迎える今では、地元の患者さんもかかりつけ医としてご利用頂き、口コミで来院していただく方、大事なご家族を連れて来てくれる方など、毎日多忙ながらも充実した日々を過ごしております。
今後も穏やかに、静かな情熱を燃やし続ける診療を、患者さんにとって最良と信じる診療を信頼する大切なスタッフ達とこつこつ続けて行きたいと思っております。
「あべ胃腸内視鏡・内科」の発展に開業当時から尽力していただきました各関係者の方々、スタッフの方々、支えてくださった皆様に厚く御礼申し上げます。
ここまで読み進めていただきまして、感謝申し上げます。ありがとうございました。
開業から5年たち
開業から5年たち
開業から5年たち
開業から5年たち